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金沢地方裁判所 平成2年(ヨ)139号 判決 1992年1月23日

債権者 山之内製薬株式会社

債務者 辰巳化学株式会社

主文

一  債務者は、塩酸ニカルジピン製剤(商品名「プレアルピン錠20」)を製造し販売してはならない。

二  債権者のその余の申請を却下する。

三  申請費用は債務者の負担とする。

事実

(重要な化学用語の説明は、別紙7記載のとおりである。)

第一当事者の求める裁判

一  申請の趣旨

1  主文一項同旨

2  債務者の塩酸ニカルジピン原末及び製剤品に対する占有を解いて、金沢地方裁判所の執行官に保管を命ずる。

二  申請の趣旨に対する答弁

本件申請を却下する。

第二当事者の主張

一  申請の理由

1  被保全権利の存在

(一) 債権者は、次の特許(以下、「本件特許」という。)を有している。

発明の名称 新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体の製法(以下、これを「本件発明」ということがある。)

出願日 昭和四八年四月一七日

出願番号 昭和五四年第一五八四六二号

公告日 昭和五六年二月一〇日

公告番号 昭和五六年第六四一七号

登録日 昭和五七年七月三〇日

登録番号 第一一〇七一〇三号

(二) 本件特許の特許請求の範囲は、別紙1記載のとおりである。

(三) 右特許請求の範囲の目的化合物のうち、別紙2記載のものの化学名を「2・6-ジメチル-4-(3-ニトロフェニル)-1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸-3-メチルエステル-5-β-(N-ベンジル-N-メチルアミノ)エチルエステル」といい、その塩酸塩を一般に塩酸ニカルジピンと称する。これは、本件特許の実施例二及び八に具体的に開示されているところである。

(四) 塩酸ニカルジピンは、債権者が開発した新規な医薬品で、脳血管拡張作用、冠血管拡張及び血圧降下作用を有する。

債権者は、塩酸ニカルジピンについて、昭和五六年以降、脳梗塞後遺症、脳出血後遺症、脳動脈硬化症、本態性高血圧症、手術時の異常高血圧の救急処置及び本態性高血圧症の治療薬(商品名ペルジピン)として販売している。

その売上は、平成元年四月ないし平成二年三月の年間で約三九〇億円に達した。

(五) 債務者は、昭和六三年一〇月二七日付で塩酸ニカルジピン製剤(商品名「プレアルピン錠20」)の製造承認を得た。

(六) 債務者は、近々塩酸ニカルジピン製剤を製造・販売する予定である。

(七)(1)  塩酸ニカルジピンは、本件特許出願前には我が国では知られていなかった物質であるから、特許法一〇四条により右プレアルピン錠20中に使用される塩酸ニカルジピン原末は、本件発明方法により生産したものと推定することができる。

(2)  一般に、医薬品の製造については、薬事法一四条所定の厚生大臣の許可を必要とし、原末の製造にもまた同法所定の許可を必要とする。しかるに、

ア (人格権侵害に基づく差止請求)

債務者は、塩酸ニカルジピン原末において、薬事法所定の製造承認を受けないで医薬の製造・販売を行おうとしている。服用者は右の行為により自己の生命、健康への侵害を受けるおそれがある。

イ (不正競争防止法に基づく差止請求)

債務者は、その製品販売にあたり、所定の製造承認を得た旨の表示をするはずであるところ、そのような表示は原末の製造についても所定の承認を得たかのように錯誤させるものであって、債権者は同一医薬品を販売する者としてそのような表示をした商品の販売によって営業上の利益を害される。

ウ (不法行為に基づく差止請求)

債務者は、薬事法違反の行為によって原末を取得し、これを用いて製剤し、当該製剤品を販売して債権者の市場を奪おうとするものである。

2  保全の必要性

(一) 新規医薬品の開発には長年月と膨大な投資を必要とするところ、後発メーカーに市場参入を許すときは、開発費用の負担がないことから価格を切り下げて開発会社の市場を奪い、かつ開発会社の価格切下げをも余儀なくさせることによって、開発会社は二重の意味で損害を被り、開発投資に見合った適切な利益を確保できなくなる。

(二) 債務者の販売がいったん開始され、塩酸ニカルジピンの市場価格が下がれば、その後にいたって債務者の特許侵害行為が禁止されても市場価格を回復させることはできなくなる。

(三) 債務者としても、侵害製品の製造販売を開始してから禁止されることに比べて、投下資本の無駄がない。

よって、債権者は、債務者に対し、<1>特許法一〇〇条所定の差止請求権、<2>人格権、<3>不正競争防止法一条一項五号の行為に対する同項本文所定の差止請求権、<4>不法行為に対する差止請求権に基づいて(右を選択的に主張する。)、塩酸ニカルジピン製剤の製造ないし販売の差止を求めるとともに、特許法一〇〇条二項所定の侵害の予防に必要な行為の請求として、債務者の塩酸ニカルジピン原末及び製剤品に対する占有を解いて、金沢地方裁判所の執行官に保管を命ずることを求める。

二  申請の理由に対する認否

1  申請の理由1について

(一) 同(一)ないし(三)について

特に争わない。

(二) 同(四)について

知らない。

(三) 同(五)について

認める。

(四) 同(六)について

認める。

(五) 同(七)について

(1)  同(1) 中の前段(塩酸ニカルジピンが本件特許出願前日本国内において公然知られたものでないこと)については特に争わないが、その余は争う(後記3の債務者の主張のとおり)。

(2)  同(2) について

冒頭の事実については一般論として認める。

ア 同アについて

債務者の製品販売が人格権侵害にあたるとする点は争う。

債務者方法は、件外マリンバイオ株式会社(以下、「件外会社」という。)によって原末を製造し、これを債務者において精製純化して製剤化する方式を採用する予定である。件外会社が製造販売するのは、塩酸ニカルジピンの粗原料であるから、医薬品に該当せず、したがって薬事法所定の製造承認を受ける必要はない。また、債務者は製剤について製造承認を得ているから件外会社から入手した原末を精製することについても適格であると考えるべきである。

なお、債務者ないし件外会社は念のためそれぞれ製造承認を受ける予定である。

イ 同イについて

債務者がその製品販売にあたり、所定の製造承認を得た旨の表示をするつもりであることは認めるが、その余は争う。

ウ 同ウについて

争う。

2  同2について

特に争わない。

3  債務者の主張

(一) 債務者が予定している塩酸ニカルジピン製剤の製造方法(以下、「債務者方法」という。)は、債権者の特許請求の範囲外である。

債務者方法とは、m-ニトロベンズアルデヒド(以下、「m-NBA」という。)と、3-アミノクロトン酸(N-メチル-N-ベンジルアミノ)エチルエステル(以下、「BMAA」という。)と、3-アミノクロトン酸メチルエステル(以下、「MAC」という。)を反応させて、塩酸ニカルジピンを得る方法である。右各物質の構造は、別紙3記載のとおりである。

すなわち、本件発明においては、出発物質Iであるアシル酢酸エステルをII及びIII と反応させてIVを得ることが必須要件であるところ、債務者方法では、右のIに該当するものを用いない。

現に、本件特許明細書には、債務者方法による原料の組合せについては言及されていないし、本件特許出願時においては当業者にとって容易に想到できるところではなかった。

また、反応については、最終段階において債務者方法は脱アンモニア反応であるのに対し、本件発明では脱水反応である。さらに、反応条件としては、債務者方法では溶媒を用いるのに対し、本件発明では中性条件下の反応である。

仮に、債務者方法において、本件発明によるニカルジピンが副成しているとしてもたかだか五パーセントにとどまる。

(二) 債務者方法は、件外会社によって原末を製造し、これを債務者において精製純化して製剤化する方式を採用する予定であるところ、件外会社が製造販売するのは、塩酸ニカルジピンの粗原料であるから、医薬品に該当せず、したがって薬事法所定の製造承認を受ける必要はない。

件外会社によって原末を製造することについて、債務者はあらかじめ厚生省の所管課の意見を徴したところ、薬事法違反であるとの見解は示されないまま、早目に製造承認を得るようにといわれたにとどまった。したがって、少なくとも製造にあたって債務者ないし件外会社にはこれが違法であると認識するについて過失がないから、不法行為には該当しない。

4  債務者の主張に対する債権者の反論

(一) 債務者方法は、仮にこれが実験室的には可能であるとはいえるものであるとしても、ただちに工業的生産として可能であるとの疎明があったことにはならず、この点の疎明は全くないに等しい。また、精製工程についての疎明もない。

(二) 債務者方法による工業的生産が可能であるとしても、債務者が実際に債務者方法によって塩酸ニカルジピン製剤を製造することはない。すなわち、

(1)  債務者方法として主張される内容は、本件審理の過程においても度々変転しており、確定していない。

(2)  債務者が塩酸ニカルジピン製剤の販売を開始するについては、その原末の試験・製剤化の工程の検討ないし製剤品の検査も必要である以上、既に債務者方法が確立されていなければならないはずである。したがって、債務者がその方法を「予定」であると主張して確定的なものである旨の主張をしないこと自体、債務者が本件発明によって塩酸ニカルジピン製剤を製造することの証左である。

(3)  また、債務者方法による収率はたかだか三〇パーセントにとどまるのに対し、本件発明を用いれば、現在では五一パーセントとなっている。

(4)  債務者方法で用いられるモレキュラシーブは、その脱水効果に疑問があるのみならず、これを現実に製造過程に用いるとなると、手間と費用がかかりすぎる。

したがって、債務者は現実には債務者方法によらず、本件発明によって塩酸ニカルジピン製剤を製造すると考えるべきであり、ひいて特許法一〇四条の推定を覆す事実の疎明はないことになる。

(三) 債務者方法は、本件発明をほとんどそのまま使用して本件発明の目的物を得るものであるから、特許請求の範囲内である。

すなわち、別紙4記載の本件発明に属する方法A及びB(以下、両者とも「特許方法」という。)は本件発明のクレームに包含される塩酸ニカルジピンの製法であるところ、別紙4記載のとおり、債務者方法で用いられる原料のEM(3-アミノクロトン酸(N-メチル-N-ベンジル)エチルエステルの略称である。)ないしMACは、その反応過程において水分子と反応・変化して特許方法と同じ原料であるBMAAないしMAA(アセト酢酸メチルエステルの略称である。)を生じ、その後は特許方法による反応過程によってニカルジピンが製造されるからである。そして、債務者方法において、特許方法が副成している割合は少なくとも一〇パーセントを下回るものではない。さらに、EMからBMAAが生成するような反応は可逆的であって、双方の均衡が保たれるように反応が進むから、BMAAが生成するなりに別のもの(塩酸ニカルジピン)に変化していけば、EMからBMAAへの生成は継続することになる。

仮にそうでないとしても、債務者方法は特許方法と同じ効果を達成することができ、かつ当業者であれば特許方法から容易に想到することができるから、特許方法と均等である。また、債務者方法は、特許方法において用いる原料であるMAA(市販原料)からMACを作り、BMAA(市販原料から作ったもの)からEMを作るという無用の迂回をすることによって特許請求の範囲に含まれない方法であるかのように装うものである。

(四) なお、債務者方法では、精製工程の最後の段階で、一規定の塩酸、水及び三パーセント炭酸ナトリウム水溶液で順次洗浄することになっているが、この洗浄をすると、塩酸ニカルジピンは塩酸とニカルジピンとに分離してしまう。

第三疎明関係<省略>

理由

一  申請の理由について

1  申請の理由1について

(一)  (一)ないし(三)について

いずれも債務者において明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。

(二)  (四)について

疎甲第三号証及び第九号証によって疎明される。

(三)  (五)及び(六)について

いずれも当事者間に争いがない。

(四)  (七)の(1) の前段(塩酸ニカルジピンが本件特許出願前日本国内において公然知られたものでないこと)について

債務者において明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。

2  申請の理由2について

債務者において明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。

3  債務者の主張及びこれに対する債権者の反論について

(一)  本件発明の技術的範囲について

(1)  特許法七〇条は願書に添付した明細書の特許請求の範囲(以下、「クレーム」ということがある。)の記載に基づいて特許発明の技術的範囲を定めるべきものと規定しているが、明細書中の他の記載、出願時の技術水準及び出願経過の斟酌等をもって右技術的範囲の補充的に解釈するための資料とすることもまた許されると解すべきである。

(2)  本件発明のクレームについて

疎甲第二号証の一によると、本件発明の特許請求の範囲は、「式Iで示されるアシル酢酸エステルを式IIで示されるアルデヒド及び式III で示される化合物と反応させることを特徴とする、式IVで示される新規な1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体及びその塩を製造する方法」とされていることが疎明される。

(3)  本件発明の特許請求の範囲について

次に、同号証によれば、本件発明明細書の詳細な説明の項には、本件目的化合物の従来技術として、1・4-ジヒドロピリジン-3・5-ジカルボン酸アミノアルキルエステル誘導体が特定の薬効を有することが知られていることの記載があること、また本件発明の構成について、「化合物III はあらかじめR1COCH2COOR5 とH2NR4とを反応させて得ることができ、これをいったん単離するかあるいはせずして…目的化合物とすることができる」との記載があることが疎明される。

さらに、疎甲第三五号証及び第三六号証によれば、本件発明の出願時には、式I、式II及び式III と同一又は類似の原料から1・4-ジヒドロピリジン環を形成する化学反応によって本件発明の新規な目的化合物に類似する数多くの化学物質を製造する方法が記載されていたことが疎明される。

そうすると、本件発明の技術的範囲は、その構成に関する限り、明細書の特許請求の範囲に記載されているとおりであって、式III の原料については、R1COCH2COOR5 とH2NR4に代替できることを含むものであるとすることができ、本件発明の製造方法自体及び目的物質(式IV)の化学構造には特徴がないものであることが疎明される。

(二)  本件発明と債務者方法との対比

(1)  別紙4記載の特許方法A及び同Bが本件発明のクレームに包含される塩酸ニカルジピンの製法であることは、疎甲第二号証の一及び二によって疎明される。

(2)  特許方法Aと債務者方法とを対比すると、使用する原料については、m-NBA及びMACは共通しているものの、前者のBMAAと後者のEMとは相違する。

また、特許方法Bと債務者方法との対比によれば、m-NBA及びEMにおいて共通しているものの、前者MAAと後者のMACとが相違する。

換言すると、特許方法A及び同Bと債務者方法との相違点は、三種の原料について、本件発明は式Iで示されるアシル酢酸エステルと式III で示される3-アミノクロトン酸エステルとを使用することを要件としているのに対し、債務者方法はMACとEMという二種の3-アミノクロトン酸エステル酸を使用する点にしぼられる。

(3) そこで、右の相違点について検討する。

ア 本件発明における式Iで示されるアシル酢酸エステルと債務者方法の3-アミノクロトン酸エステル類とについて

アシル酢酸エステルの代表的化合物として、MAAを、3-アミノクロトン酸エステル類の代表的化合物として、MACとを比較すると、MAAの化学構造式は別紙4中に記載のとおりであり、ケト基を有する飽和カルボン酸エステルに属する化合物であるのに対し、MACの化学構造式は、別紙4中に記載のとおりであり、アミノ基を有する不飽和カルボン酸エステルに属する化合物であって、両者は化学構造上全く異なる範疇に属する化学物質であり、ひいてはアシル酢酸エステルと3-アミノクロトン酸エステル類とも同様であることが明らかである。

イ 化学反応について

両者は、1・4-ジヒドロピリジン環を形成する方法である点で一致するものの、本件発明は二モル当量の水を副生する方法であるのに対し、債務者方法はアンモニアと水とを副生させる方法である点に相違があり、さらに、本件発明では、3-アミノクロトン酸エステルのアミノ基の窒素原子が必ず環部分を構成する元素となるのに対し、債務者方法は二種の3-アミノクロトン酸エステルのうち、いずれか一方の化合物の窒素原子のみが環部分を構成する元素となり、他の化合物の窒素原子はアンモニアとして副生し、債務者方法においては、二種の3-アミノクロトン酸エステルにおける同じアミノ基が別異の反応をすることが明らかである。

ウ また、疎甲第三五号証によれば、ハンチの合成で1・4-ジヒドロピリジン環を形成する反応として、原料にNBAのほか「アシル酢酸エステル類とケチミン(3-アミノクロトン酸エステル類)」を用いる方法及び「二種のケチミン(3-アミノクロトン酸エステル類)」を用いる方法がそれぞれ区別して記載されていることが疎明されるところ、このうち、本件発明のクレームは前者の公知方法のみを含むものであって、後者の公知方法は除外するものであること及び債務者方法はその後者の方法によるものであることが明らかである。

すなわち、債権者は、ハンチの合成ではアミノクロトン酸エステルとアセト酢酸エステルとは同じように使用できることが知られていたと主張するところ、疎甲第三五、第三六号証によれば、アルデヒド(m-NBAを含む)、ケトン(アセト酢酸エステルを含む)及びケチミン(アミノクロトン酸エステルを含む)から、1・4-ジヒドロピリジン環を形成する化学反応が生起することは本件発明出願前公知であり、同時にアルデヒド及び二種のケチミンから、1・4-ジヒドロピリジン環を形成する化学反応が生起することも本件発明出願前公知であることが疎明され、本件発明は前者に該当し、債務者方法は後者に該当することは明らかである。したがって、本件発明者にとっては、本件発明のクレームを作成するにあたり、本件出願時に公知であったハンチの合成方法を適用して上記二つの方法を含むべく記載できたはずであるところ、右クレームによれば原料成分の構成要件としてアセト酢酸エステルの使用のみを選択したにとどまる。

エ 結局、本件発明の式Iで示されるアシル酢酸エステルは、債務者方法の3-アミノクロトン酸エステルに置き換えることはできないというべきものであって、債務者方法は本件発明の技術的範囲に属しないと判断される。

(三)  その他の債権者の主張について

(1)  「債務者方法の反応においては必ず水が副生し、債務者方法の原料とこの水とが反応することによって特許方法の原料が生ずる」とする点について

疎甲第二〇号証によれば、債務者方法に用いるEM及びMACにそれぞれ一モル当量の水を添加した実験結果は、加水分解によってそれぞれBMAA一二・六パーセント、MAA一八・五パーセントを生じたとされているところ、右実験は、ほかに化学物質がなく、加水分解に適する必要量の水を当初から添加していることからしていわばモデル実験として行われたものと考えることができ、したがってそのような実験においても、むしろ加水分解が低率で生起するにとどまることを示すものであるというべきである。

一方、債務者方法のように化学反応の進行につれて、次第に水が発生する反応系中では、右実験におけるように容易に加水分解が起こることは考えられないから、BMAA及びMAAの生成量はより少なくなるものと推定される。

また、疎甲第二八号証によれば、モレキュラシーブを添加したうえ水を徐々に添加する方法による実験の結果においても、その生成量の点で疎甲第二〇号証の実験の場合と特段の差異はないことが疎明される。そして、疎乙第二八号証及び疎甲第三〇号証によれば、塩酸ニカルジピンの収率は、反応系中への水の添加によって顕著な差異がないこと(三〇・八パーセントないし三三・七パーセントの程度にとどまること)が疎明される。

結局、債務者方法においてBMAA及びMAAが多少生成していることがあるにせよ、反応系中への水の添加によって塩酸ニカルジピンの収率に差異がなく、かつ、債務者方法では塩酸ニカルジピンは低い収率にとどまっていることから判断して、債務者方法の反応系中で生成しているBMAA及びMAAが塩酸ニカルジピンの原料となっていると推認することはできず、むしろ債務者方法においては、二種の3-アミノクロトン酸エステルがm-NBAとが直接反応して塩酸ニカルジピンを生成していると見るのが相当である。

(2)  「EMからBMAAが生成する反応は可逆的であるから、BMAAが塩酸ニカルジピンになってなくなるにつれてBMAAが生じてくる」とする点について

多くの成分が存在する債務者方法の反応系中で債権者の主張するような反応が容易に生じるとは考えることができない。

(3)  迂回発明について

ア 迂回発明とは、特許発明と基本的に同一の技術的思想に基づきながら、クレーム中の構成要件のうち、出発的要件と最終的要件とを同一にしつつ、その中間に客観的にみて無用かつ容易な要件を施したものをいうと定義することができる。

イ 疎甲第三三号証によれば、アセト酢酸メチルとアンモニアから3-アミノクロトン酸メチルが生成することが記載されているものの、この反応は、アンモニアが反応原料として反応系内にアセト酢酸メチルと当量存在する必要があることが要件であることが前提となっており、またその反応がいかなる条件でいかなる程度生起するのか明らかでない。また、3-アミノクロトン酸メチルはアセト酢酸メチルと密接な関係を有する化合物であるとはいえない。

ウ そうすると、債務者方法は、本件発明とは出発的要件を異にするばかりでなく、本件発明に無用かつ容易な要件を施しているものではないというべきである。

(4)  均等について

ア 一般に、特許発明の構成要件の一部を他の要素に置換した技術が特許発明の目的及び作用効果(機能)において同一(作用効果の同一性)であって、それゆえに置換が可能であり(置換可能性)、かつそのように置換すること自体が出願時における当業者ならば、特許発明の構成の記載から当然に想到し得る程度のものであるとき(置換自明(置換容易)性)は、その技術は特許発明と均等であるというべきである。

イ そこで、検討する。

アミノクロトン酸エステルとアセト酢酸エステルとは、その化学構造及び化学的性質からみて全く異なるものであって、これらが化学常識上類似物質に属するとみることはできないことは明らかである。

また、疎甲第三四号証によれば、ケトンが第一アミンと可逆的に反応すること及びイミンはエナミンと化学平衡の関係にあることは一般には起こり得る化学反応であることは認められるものの、疎甲第二〇号証によれば、債務者方法において、このような化学反応が容易に生起しないことは債権者の実験結果から明らかであることが疎明される。したがって、右両者は置換可能性があるとはいいがたいというべきである。

結局、その余についての判断をするまでもなく、債権者の本件発明の技術的範囲の解釈においてアミノクロトン酸エステルの使用をも包含するという主張は失当であり、到底採用できない。

(5)  「債務者方法の反応系中の水を測定してモレキュラシーブを添加しても水が存在することを確認したことから、債務者方法の大部分の塩酸ニカルジピンは特許方法を経由したものである」との主張について

債務者方法の原料であるMAC及びEMに加水分解に適する量の水を存在させたモデル実験においても、MAA及びBMAAの生成が低率にとどまったことは既に述べたとおりであり、債務者方法は水の消費(加水分解)と供給(生成)とがともに生起するという複雑な反応系内であることからして、その水量の測定結果から有意の知見が得られるとも思われない。

したがって、技術的観点からみて、債務者方法は本件発明の技術的範囲に属しないというべきである。

(四)  債務者が予定している塩酸ニカルジピン製剤の製造販売について

(1)  疎乙第四、第一〇及び第一一、第一七並びに第二八号証によれば、債務者方法によって塩酸ニカルジピン製剤が工業的に製造できること、また、収率は約二五ないし三一パーセントであることが疎明される。

(2)  モレキュラシーブを添加した債務者方法(以下、「添加債務者方法」という。)について

疎乙第二八号証によれば、収率二八・九五パーセントで塩酸ニカルジピンが製造されることが疎明される。

そして、疎乙第二二号証の二によれば、件外会社から厚生省に対して、添加債務者方法による医薬品製造承認の申請が行われていることが疎明され、疎乙第三〇号証によれば、件外会社から東京都に対して、添加債務者方法による医薬品製造承認の申請が行われていることが疎明される。

(3)  債務者方法による塩酸ニカルジピン製造の現実性について

しかしながら、債務者が現実に債務者方法によって製造した塩酸ニカルジピンのみを用いて塩酸ニカルジピン製剤を製造販売するとの疎明は十分でない。

なぜなら、まず、債務者方法と特許方法とを比較すると、使用する原料化合物であるBMAAとEMとは、その購入原価の点で格別な差異がないと思われるにもかかわらず、前示のとおり、その収率には顕著な差が認められ(債務者方法では二五ないし三一パーセント、特許方法では五一パーセント)、この差からすると、むしろ既に市販されている塩酸ニカルジピンを用いて塩酸ニカルジピン製剤を製造する方が(その購入費用中に含まれるべきいわゆるロイヤリティーを考慮したとしても)経済上合理的であると思われ、債務者が継続的に債務者方法によって製造した塩酸ニカルジピンのみの供給を受けて塩酸ニカルジピン製剤を安定的に供給することは営利を目的とする企業の行動として不合理であると考えられるからである。

(4)  添加債務者方法による塩酸ニカルジピン製造の現実性について

また、債務者が予定している添加債務者方法によって製造された塩酸ニカルジピンのみを用いて塩酸ニカルジピン製剤を製造販売することについてはさらに疎明が十分でないというべきである。

けだし、添加されるモレキュラシーブは反応系内の水を除去すべく投入されたものであって、塩酸ニカルジピン製造に寄与するものではなく、これを添加することによって収率に影響しないものであることは疎乙第二八号証によっても疎明されるし、さらに、液層反応系内に固体であるモレキュラシーブを投入することはその後の分離の必要性などの点から極めて不経済な方法であることが明らかであるからである。

したがって、単に特許方法と異なる経過をたどって塩酸ニカルジピンが製造されることを証明するための実験として行われるのであればともかく、添加債務者方法を工業的生産において用いるということは全然意味がないことであって、わざわざそのような方法を用いることは極めて不合理であるというほかない。

そうすると、債務者がその主張する債務者方法ないし添加債務者方法によって塩酸ニカルジピンを製造すると考えることは、到底困難であって、特許法一〇四条の規定によって、債務者が今後製造する塩酸ニカルジピン製剤は特許方法によって製造された塩酸ニカルジピンを用いるものと推定されるから、債権者が同法一〇〇条一項に基づきその差止を求めることは理由がある。

二  申請の趣旨2項について

疎乙第一〇及び第一二号証によれば、債務者が債務者方法によって製造された塩酸ニカルジピンを用いて塩酸ニカルジピン製剤を製造したことは疎明されるものの、その余の方法によって製造された塩酸ニカルジピンを入手したことの疎明はなく、債務者方法は前述のとおり本件発明の技術的範囲に属しないのであるから、結局本件発明によって製造された塩酸ニカルジピン原末ないし製剤を債務者が占有していることの疎明がないことに帰し、債権者が特許法一〇〇条二項所定の侵害の予防に必要な行為の請求として、債務者の塩酸ニカルジピン原末及び製剤品に対する占有を解いて、金沢地方裁判所の執行官に保管を命ずることを求める部分は理由がないことが明らかである。

三  結論

以上のところから、その余の点について判断するまでもなく、本件申請は主文掲記の限度で理由があるから認容し、その余は失当であるから却下することとする。

(裁判官 伊藤剛 橋本良成 伊藤知之)

別紙1ないし7省略

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